「イタリア映画祭2002」寸評

 

Pier Paolo Pasolini e la ragione di un sogno

パゾリーニ、夢の論理

 

2001年

   : ラウラ・ベッティ

 

二十世紀のイタリア文学・映画界に最も偉大にして、最もスキャンダラスな足跡を残したピエル・パオロ・パゾリーニに関するドキュメンタリー映画は、数少なくない。本作品は、パゾリーニ組の女優ラウラ・ベッティの手による最新の一本である。
映画祭のパンフレットは、ベッティについて「パゾリーニの言葉を現在に伝える巫女」とまで称えているが・・・。正直なところ、今までパゾリーニの「押しかけ女房」的な彼女のあり方が、良くも悪くも目に付いてきた。本作品もあくまでラウラ・ベッティによるパゾリーニへのアプローチであり、これは彼女の視線から描き出されたパゾリーニの世界と言い切れるだろう。

けして整然とした構成のドキュメンタリーではない。パゾリーニの作品の断片、その発言、そして彼にかかわった人々の証言、一般の人々(子どもも含む)のパゾリーニ観などがランダムに散りばめられている。

面白かったのは、上映時間の半ばあたりで、早くもパゾリーニの葬儀の記録が映し出されたこと。予定調和的に最後にもってきそうなところを、ベッティには何か意図があったのか?それとも単なるなりゆきで?
いずれにせよ、泣き叫ぶニネット(パゾリーニお気に入りの若い俳優)、険しい表情のアルベルト・モラヴィア、棺の傍らに付き添っていたタヴィアーニ兄弟の姿が印象的。そして多くの人々が粛然と会葬に赴き、出棺の際に無言でこぶしを突き上げている様子は、まるでパゾリーニ自身が『大きな鳥小さな鳥』でインサートしたトリアッティの葬儀の様子そのままだった。
そういえば、『マンマ・ローマ』で母を残して亡くなる息子も、まるで自分自身の未来を先取りしていたようだった・・・。

それから、その死の少し前の映像なのだろうが、パゾリーニ『ソドムの市』組と、ベルトルッチ『1900年』組のサッカーの試合が見ものだった。敵陣に切り込んで行くパゾリーニの足の速いこと!きっとフォワードかミッドフィルダーだったのでしょうね。パゾリーニがスポーツマンだったということは聞いていたが、いざその姿を見せ付けられると、驚かざるをえなかった。このときの記念写真でも、ベッティが紅一点で大きな顔して真中に映っていた。

さて、パゾリーニ自身の複雑な人間性を写したのかどうか、『夢の論理』は混沌としたドキュメンタリーだったが、これこそがパゾリーニ→ベッティの訴えかけたかった事ではないかというひとつのメッセージは、キャッチできた。
それは、イタリア国民は、国家統一の際も、ファシズム支配下でさえも、けして統一され切ることがなかったのに、戦後の消費社会により、ついに画一化されてしまったという趣旨のパゾリーニの発言。これは鋭い。パゾリーニの死後27年、イタリアに限らず、これこそ21世紀を迎えた我々が直面する最大の問題のひとつであろう。

 02/09/19

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